式部省
概要
文官の人事考課、禮式、及び選敘(敘位及び任官)、行賞を司り、役人養成機関である大學寮を統括するため、八省の內でも中務省に次いで重要な省とされてきた。そのために長官である式部卿は重要な役とされ、弘仁3年より四品以上の親王が任ぜられる慣例ができあがっていった。これに近いものとして、同じく四品以上の親王から選出された中務省の長官である中務卿などが挙げられる。ただし、南北朝時代に二條良基が『百寮訓要抄』の中で式部卿の就任要件として「第一の親王是に任ず」と説き、諸親王の中でも血筋・経歴・學識にもっとも秀でた者が就任する官職と考えられていた。実際、平安時代前期の式部卿は葛原親王や時康親王などに代表されるように政治的な見識の高い実務に通じた親王が補されることが多かった。
だが、次第に見識よりも天皇との血筋関係が任官において重要視されるようになると、式部卿である親王に代わって式部大輔が実質的な長官となった。式部大輔は儒學者で天皇の侍読(家庭教師)を務めた者が就任する慣例となっており、儒學者である日野家や菅原氏・大江氏の中から任ぜられ、特に菅原氏や大江氏の人間が參議になるための要路としての役割も果たしていた。そして參議となってからも式部大輔を兼帯することは差し支えなかった。そして式部省の次官である大輔及び少輔については、両方の権官を同時に任ずることはできないこととなっていた。
以上で述べた式部省の重要性から、式部省の判官である式部大丞(正六位下相當)及び式部少丞(従六位上相當)は、しばしば従五位下に敘せられることもあり、五位となった式部丞のことを式部大夫と稱した。
また、六位蔵人で式部大丞または式部少丞を兼職した者は、特に昇殿を許されたために殿上の丞(てんじょうのじょう)と言われた。
職員
- 卿(相當於正四位下) … 一人
大輔以下的定員如下:
參考文獻
- ↑ 式部省補任―正暦元年‐建武三年,amazon