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土岐赖元 | |
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出生 | 不詳 |
逝世 | 慶長13年10月19日(1608年11月26日) |
父母 |
父:土岐賴藝 母:六角定賴之女 |
日語寫法 | |
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日語原文 | 土岐 頼元 |
假名 | とき よりもと |
平文式罗马字 | Toki Yorimoto |
日語舊字體 | 土岐 賴元 |
土岐賴元(とき よりもと,生年不詳 - 慶長13年10月19日(1608年11月26日)),男,日本武士,是土岐賴藝的四男。生母为六角定赖之女。兄賴榮、賴次和賴宗。別名赖重。又被称为齋藤賴元。通称五郎左衛門、越前守和道庵。
经历
天文21年(1552年)前後,父亲頼藝被追放后,幼少的他被齋藤氏扶持而继承家督。齋藤氏滅亡後辗转各地,先后侍奉武田氏、豐臣氏,最后侍奉德川氏,而守住了土岐氏的家名。丰臣秀吉曾授予他河内古市郡内500石。
關原之戰后改侍德川家康,担任美濃國内的知行。隱居後称道庵。据『寬政重修諸家譜』记载,他在慶長13年(1608年)10月19日死去,年齢不詳。土岐家由息子持益继承。虽然賴元一代曾称齋藤姓,但是息子持益又改回了土岐姓[1]。
此外,還擅長鷹繪畫,瑞浪市日吉町平岩的開元院還收藏有賴元所繪畫的《土歧的鷹繪圖》[2]。
日文资料
土岐頼元。美濃国守護、頼芸の四男。母は六角定頼の娘。
斎藤道三により父と兄の頼次が美濃国から追放されてしまうが、 幼少のため斎藤氏の扶助を受ける。 斎藤氏の滅亡後は甲斐国の武田氏に仕えてのち、 豊臣秀吉に仕えて河内国古市郡に五百石与えられる。 1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、 戦後、徳川家康に仕える。隠居後は道庵と号する。
鷹の絵と土岐氏
絵画の中でも、鷹の絵を書くことに土岐氏は秀でていた。 現在では「土岐鷹」として有名詞になっている。
歴代守護の中では、尊卑分脈に5代守護土岐頼忠は「弓馬上手鷹一流相伝」と言われる程で、 ほとんど例がない「隠し落款蒼鷹の図」が第5代土岐頼忠菩提寺の禅蔵寺(揖斐郡池田町)に収蔵されている。
その他、崇福寺(岐阜市長良福光)には土岐頼高筆、 開元院(瑞浪市日吉町)には土岐頼元筆の「土岐の鷹絵図」がある。
尚、今までに鷹図の作者としては土岐頼芸、土岐富景、土岐洞文、土岐頼高、土岐頼元、 土岐直頼、土岐範頼などが見えるが、系図上たどれるのは頼芸と頼元だけで、 その他作者の解明が今後の研究課題である。
土岐頼芸は斎藤道三に美濃を追われ、弟治頼の住む常陸国江戸崎城、上総国万木城に寄寓するが、 その夷隅市郷土資料館にも土岐頼芸の鷹絵が伝わった。